個人的な感情

「3月11日の大震災以降」という枕詞を、どこでも目にする。公共の文書だけでなく、人前で話をする場合にかぎらず、ちょっとしたおしゃべりでも私信でも、大震災は「必須の項目」であるかのようだ。それが被災地の人ではなくても、かならずしも妻子や自宅をなくしたわけではなくても、往々にして、収入が激減したり仕事の計画がたてられなくなったりしているから、それはあたりまえだ。

もちろんいつでも、大事件ぐらいある。とんでもない比率の為替変動だとか、中国の台頭だとか、昔でいえば石油ショックだのバブルだの。大事件の後は、何かがちがってくる。それが大事件というものだ。

ただ、3月11日の大震災以降というのは、壮絶な規模の、物や金の問題であるのと同時に、理由の説明しにくい、精神とか善意とか倫理とかの意味がおおきくなった。いつもお金と商品をうごかすことで毎日をおくってきたのに、いざ、こうなってみると、私たちが実は、金や物なんかでは理解できない、浪花節のような根性や人情でうごいていたからだ。

大震災の後、私たちは、私たち自身にびっくりしたのではないか。

この私たちが、社会のシステムを言訳にしないで、そんなのは眼中になく、やむにやまれずどうしても必要なことのために、うごいてしまった。馬鹿みたいに感情的になって、被災地と東北と日本人をかんがえてしまった。センチメンタルな自分を嘲笑するヒマもなく、行動していた。