物語

格別の賞罰もない人生だって、どこにでもある初恋だって、話をきいてくれる人がいれば物語になる。誰だって自分なりには真剣に生きているから、きいてほしい話のひとつやふたつはある。ちょっと記憶にのこる場面もないわけじゃない。

中学の時にはじめて女の子の家にあそびにいって、決死の覚悟で気持をつたえた、その日の路上の深紅のカンナとか、相手にしてもらえるわけがないと最初からわかっていた劣等感とか、そういう凡庸な話でも、すこし同情しながら可笑しがってくれる友人でもいれば、それはかけがえのない物語になる。あちこち女をわたりあるいて多額の借金をかかえて、商売で再起をはたして病気になって、復帰しても気力がもどらないなんて、親友がぽつぽつときかせてくれたら、それは波瀾万丈の大河ドラマだ。物「語」っていうくらいだから、やっぱり大事なのは、話をしてくれる、話をきいてくれる、その事にある。もしかして内容は二の次でもいい。

超有名なスポーツ選手とか芸能人とかでも、誰にも見てもらえなくなったら単なる一人の人だ。どれだけ苦悩しても、死ぬほど努力しても、誰の目にもとまらないでおわったら、話にならない。人がみてくれないと物語にならない。弱小球団をささえた炎のピッチャーが、故障をかさねながら再起をめざして地べたでもがくように練習をつづける姿は、それだけで人目をひきつけた。だから、彼が最終的にエースとして復活することがなかったとしても、物語の値打はかわらない。そのヒーローの熱を感じるのは、エースとしての活躍に目をうばわれた時と、おなじだ。

感動するべき値打があるから他人の目にもとまるのだが、たくさんの人の注目をあびることではじめて、存在がリアルになったりするだろう。人目と値打は、ニワトリと卵の関係にあるから、どちらを因果関係の上位におくかは自由だ。しかし私たちの物語にとって、人目が不可欠なのはまちがいない。卵にとってのニワトリのように。

ならば・・・。女房子供と家と船を、もろとも津波でなくしてしまった漁師にとって、何か心をふるいたたせる物語が、はたして地上のどこかにあったりするだろうか。手塩にかけてそだてる何十頭もの牛を、放射能がこわいという理由で、放置して、にげて、もう大丈夫だといわれて、おそるおそるかえってきて、やせこけてたおれて腐敗した何十頭もの死骸をみつけた男にとって、必要な物語はなんだろうか。自分の手足をちょんぎる方がずっと楽なのではないかというくらいの苦痛をあじわった時、物語ごときが何かの役にたつか。それはわからない。

絶望に対して有効なのかどうか。物語には人を治癒する力があるかどうか。そんなことを証明しようとしても無理だろう。津波は神のあたえた試練であるとか、放射線は日本人にくだされた罰であるとか、そういう大袈裟な物語をふりかざしたら、誰かが得するのかもしれないが、ふつうにはゴミのように無意味だろう。乾電池と吸殻のまじった生ゴミのように不愉快だろう。

だから、話は逆なのだ。何十年たっても、何兆円の金をかけても、ぜったい元にもどったりはしない絶望の原野で、誰にも話をきいてもらえず、誰にも惨状をみてもらえず、どんな理由づけもできず、何の義務感も目的意識もないままで、人はいきていけるのか。もしも自分だったら。それはかんがえるのもおそろしいことだが、それがもしも自分ならば、きっと、どんなにちいさくてもいいから、我慢の意味をさがすだろう。ちょっとでいいから、話をしたいだろう。どうしてこんなことがおきなければならなかったか、どうして自分だけがのこされなくてはならなかったか、どうしてまだいきていかないといけないのか。答なんかみつからなくても、どうしても無言の声が、あふれしまうだろう。

写真に何か力があるかどうか、そんなことはしらない。けれどはたして写真をとらないでいられたのか。それは無理だった。そこにいきているセイタカアワダチソウ、自衛隊、海中に没した橋脚、営業をはじめたコンビニ、土台だけになった町、青空、吹雪、工事の車両、何もかもひきはがされて露出した地面、信号機、そういう物事は、それ自体がむきだしの意味を叫んでいた。

2012.11.15

道路

道路が通じていなければ、自分は絶対にあんなおそろしい場所へ撮影に行ったりしなかった。でも波にのまれて炎上していたのは、地つづきで、日本語がつうじて、しかも道路がつながっている場所だった。自宅から、ちょっとはなれた日用雑貨の量販店まで、車で30分ぐらい、その延長線上の数時間先に、被災地があった。放射線のおかげで空っぽになった無意味な道路も。

写真なんかとりにいっても、何の役にもたたなくて、何もできなかったのは、菅直人が現地に急行しても何もできなかったのとおなじかもしれないが、それでも写真は、とらないよりも、とっておいた方がいいし、それは、無数の死と絶望の渦に対して、胸のはりさけるほどくるしい勇気をふりしぼる人々の力に、自分がすこしでもさわってみたかったからなのだ。

勇気は絶望よりもくるしい。あきらめれば、たたかわなくてすむ。でも現実っていうもんがあるのなら、それはぶつかって苦痛に顔をしかめる時にしか理解できない。自動車にのって移動する道路は、ちょうどエスカレーターのように安易で非現実的な設備だけど、その先にあるのはむきだしの現地だったりする。安易なメールと気楽なクリックごときでも、血のでるようなリアクションがかえってきたりするのとおなじだ。覚悟しておいた方がいい。用心しないと、現実はいつでもそこいらへんにあるっていうことだ。

自分の家に、二度とかえれない人がたくさんいる。そして、汚染がこわいから絶対かえりたくないのに、汚染はもう平気だからかえりなさいっていわれる人もいる。何千人なのか、何万人なのか。はっきりした嘘や、意図的な中傷のおかげで、露骨な現実以上に過酷な境遇にあるかもしれない。

この道路の先に、そういう世界がある。写真をとるのは、そういう世界が相手だったりする。道路も、写真も、他人事として多少は風化してもらわないと、とても正気でいられない種類の現実につながっている。2012.11.12

風化

あれだけの衝撃をもらった大震災だけれど、私の中では次第に風化してきている。時々、何かの事件について「風化させてはならない」という文句を聞く、あの意味での風化だ。

はじめは頭が真っ白になって、吐き気をもよおした。言葉をなくして、でも反対に何をどうかんがえたらいいのか混乱して、何でもいいから言葉をさがした。自分の中だけで大上段にふりかぶって演歌をどなってみたり、百万年の彼方から俯瞰するみたいな目で事態を傍観しようとこころみたり。直接の被災者ではないので、これは比喩でしかないけれども、それでも地震でゆすぶられ、津波でもみくちゃになり、放射線に焼かれた。あんなに生々しい体験は、今迄の人生ではじめてのことだ。幾千の人が傷ついて死んでゆくのと、まだ生きている自分の偶然が、気持の上では無理なくかぶって、赤むけの現実感をかみしめた。

だから、今はすこしほっとしている。自分の気持的にも、いわゆる被災地の復興という意味でも。いちおう瓦礫だけは整理されて、むきだしの傷口はひとまずふさがった様子だから、ちょっとだけ現実をわすれさせてもらえる感じなのだ。風化させてはならない? いや、すこしだけでいいですから風化させてください。心も体も、ちょっと休憩させてください。どうせどこへもにげられないし、無視できるわけもない。12.10.31

くらい写真

べつに自分の写真についての話というより、震災のリポート全般について、それがどんなふうにみえるか、不思議におもう時がある。広大な海がぜんぶ濁流になって町におそいかかる様子は、たしかにこわいし、1年以上たっても生々しい感情がよみがえる。みわたすかぎりが廃棄物処理場みたいになった風景は、これが昨日までふつうの町だったなんて、信じられない惨状だった。でも私たちは、そこに人がいて、我慢したり絶望したり勇気をふりしぼったりする様子に、津波の衝撃とおなじくらい重大な何かを感じている。

瓦礫の原に開通してゆく一般道の景色は、不屈の精神にみえた。今現在も粛々とすすんでいる瓦礫の分別整理など、日本人のたゆまぬ勤勉の証明でなくて何だろう。いつになったら元の生活ができるのか、一向に目処のたたない不安は当然の話でも、それでも絶対にあきらめない普通の人々の仕事に、私は目をみはる。おそろしい、かなしい、くらい、みるにたえない写真が、私たちの心のどこかを、つよくゆさぶる。それは根性と、忍耐の写真でもある。

悲惨な光景を悲惨だとしか感じられなかった自分に、これはもしかしてすごいんじゃないかと、聞いてみる。風景はうごいている。うごかしているのは、季節の風雪だけではない。

夜明け前

昔、といってもせいぜい何十年か前だけれども、木曽の島崎藤村記念館にいった時、とても不愉快になった記憶がある。僕は文学趣味の子供で、文学的に高級な長編の作者である、森鴎外とか谷崎潤一郎とかいう人をえらいとおもっていた。藤村といえば、もちろん「夜明け前」。当時はまだよんだことはなかったけれど、とにかくすごいんだと信じられた。だから記念館の展示品がどんな物であれ、拝見すれば気持よくなる期待があった。もうわすれたけれど、きっと愛用の万年筆とか文机とか、そういうのもあったのではないか。でも僕がおぼえているのは、藤村の私信だ。当時のいわゆる不義密通にかかわる、本人の肉筆。文学的な偉業にくらべたら、およそどうでもいい私的内情が、まるで変質的犯罪者を追究するワイドショーのようにあばきたてられて、その証拠がガラスの展示ケースにならんで一般公開されている。衝撃だった。

文学の研究手法でいうと実証主義だろうか。作品を、作家個人の経験にさかのぼって点検するやつ。ヘンリー・ジェイムズはEDだったから文体がしつこいとか、有島武郎は金持だったから発想が幼稚だとか、そういう方向の批評だ。それはもちろん、精密に、誠実にやればやるだけ、作品にてらしあわせて納得できる部分もあらわれてくるのだが、だからといって錦の御旗にかかげるべきことでもない。太宰治は自殺した人であるより、「人間失格」の作者なのだ。ほじくればほじくるだけ意地きたない島崎藤村を、僕はほじくりかえしてうれしいとは感じられない。そんなことはほんとにどうでもいいけど、やっぱり「夜明け前」だろう、と。

話は、僕の撮影する写真に関係がある。自分の写真を頭でかんがえるとき、僕はいつも「夜明け前」をおもいだす。どちらかといえば人の顔よりも、人のかかわった風景や、人のつくった物に関心をむけるのが僕のやり方らしい。だんだん、なぜか自然にそうなった。たぶん「物」こそが人だからだ。「夜明け前」こそが藤村であるように、崩落した歌津大橋や、復旧をとげた東北自動車道こそが日本人である。落橋した国道がふたたび旧道に迂回して当座の必要にこたえている様子や、復旧させたのに地盤沈下による冠水で、両脇に土嚢をつみあげてかろうじて通行を確保している現状とか、そういう悪戦苦闘こそが私たちの姿ではないのか。だから今も誰も軽トラさえもめったに通行しない、浪江町の国道こそ、もしかしたら日本人の姿じゃないのか。

写真家と愛煙家

自分の名前を冠した「個展」をする。「吉野正起写真展:道路2011」。大それた行為だ。人様に御挨拶するのに、そうすると自分の肩書はやっぱり「写真家」である。それでお金をもらったりします、っていう意味ではそのとおりだけれど、しかしかといって、人様の注文どおりの品を生産する、っていう意味では微妙である。私の場合の「写真家」は、建築家とか音楽家とかいう場合の「家」であるより、愛煙家とか男色家とかいう場合のそれにちかい。もしかしたらかなり御迷惑な場合もあるかもしらないんだけど、勝手にやらせていただいているので。

道路がない!

「被災地」を車で移動する時、こわいのは夜。死者の無念がひたひたとおしよせる。わかるよ、わかってるよ、くやしいよな、そうだよな、なんて心の中で返事しながら運転をつづける。ヘッドライトの光束の中に、土煙がゆらゆらただよう。突然、カーナビが女の声で案内する。
「次の信号を右方向です。」
でも、でも、信号なんてねえし!
「ファミリーマートが目印です。」
ふざけんなよ、コンビニもねえし!
そして、まがるべき道路そのものが、どこにもない。

膨張した海にのまれて死んだ人たちの無念に何もこたえることはできないし、今それでも苦闘をつづける人たちの力になることもできない。僕はただ誰かの復旧してくれた道路をあてにして被災地を車ではしる。そして世間でよくいうところの、自己責任とか、判断力とか、自由とかいうテーマが、あほらしい贅沢品におもえてくる。みんなの力で、やっと整備されてきた道路網と、これについての精密な情報が、きちんと用意されていて、はじめて僕は自由に判断して自分の責任で、あそびにいったり、撮影にでかけたりしている。僕の自力は無にひとしい。

写真に何かできるのか?

わざわざでかけていって、ごまんと写真をとって家にかえってきて、こうしてながめる。自分にたずねる。自分の写真に何かできることがあるか。乱暴に一般化してしまえば、こういう状況で写真というものに何かできることがあるのか。あるかもしれない。たしかに時々役にたつようだ。でもそういう期待をするよりは、何もできないと腹をくくってしまった方がいい気がする。自衛隊員だってお医者さんだって政治家だって、まともな人ならきっと、俺は何もできないとおもいながら、滂沱の涙を我慢しながら、できる仕事だけをやっていたにちがいない。

夜の三陸

所用をすませて夜更に、陸前高田の鉄道にそって車をはしらせる。鉄道といっても、もちろん今は線路さえほとんどのこっていない。ただ、街灯も先行車もない暗闇をカーナビたよりに走行するから、その道がかつて大船渡線だった鉄道に並走しているのが、ナビ画面でわかるのだ。前方を凝視して、まだ冠水していないか気をつける。それでも時々、路面の陥没につっこんで、はげしい衝撃をくらう。ふと、笑い声をきく気がする。すぐとなりを走行していたかもしれない鉄道の車両が、ひどい路面にうろたえる僕を、暗闇で笑う気がする。車両がわらう? 津波の時にここいらで被災した鉄道車両はあったのかどうか、何もしらない。もろともに海水にのみこまれた乗客がたくさんいた、なんて報道はきいていない。だけどうしなわれた鉄道線路と、うしなわれた人命との連想で、ただでさえおそろしい暗闇には、まだ血のしたたる霊魂があふれかえっている気がしてくる。そうだ、あたりまえだ。この地には、どれだけの驚愕と無念と苦痛があふれているだろう。瓦礫の撤去がすすんだ空っぽの風景を、昼の日中にみている分には感じなくても、この土地にとっての現実は、深夜の暗闇の中にあるのかもしれない。僕はおそろしいと感じる。きわめてリアルに、素直に恐怖をあじわう。怒濤にのみこまれて死んでゆく気持がどんなだったか、ほんのすこしだけ体感しろと、広田湾の亡霊は僕に命じている気がするからだ。いい。ほんのすこしだけ。このままガードレールも失われた岸壁から、水底につれていかれるのには抵抗するけれど、彼らもそこまでは僕に要求していない。恐怖を味わえ、と言っているだけだ。それならかまわない。彼らもみんな、僕とおなじように、もうちょっと生きていたかったのだ。

信じる理由がある

ロンドンの人混でスリにあったりしたら、かならずしもイギリス人が全員ドロボーだと思わないとしても、印象がわるくなるのは当然だ。旅先の損害はとても痛いものだから、ロンドンの風景をおもいだすたびに不快な経験もよみがえるだろう。僕にとっての気仙沼はその反対で、あの瓦礫の海をおもいだすたび胸が熱くなる。あの町の男女ひとりずつに親切にしてもらっただけで、三陸一帯の人がみんなあんなに親切なんだと信じるわけじゃなくても、わるい印象なんて、どうやっても持てない。だって、あの惨状だぞ。

金に不自由してなくて友達がいっぱいいて体が丈夫で、毎日夢をもってやりたい仕事ができていたら、気持にゆとりもあるだろう。横断歩道にお年寄が立っていたら、ちょっと車をとめて、にっこりわらって渡してあげたくなるかもしれない。電車で席をゆずるのも義務だからではなくて、自分がもっといい気持になるために自然にできるだろうと思う。自分が安心できていれば、人様の気持をかんがえる余地ができる。親切とは、そういうもんだと僕はかんがえていた。もちろんそれは暇人の娯楽だとはいわない。自分のためにも、人のためにもなる、大事なことだと思っている。ゆとりさえあるならば、だ。

だから僕は自分に、何度でもききたくなる。瓦礫の原であの女性は、自宅が半壊でもゆとりがあったから僕に親切にしてくれたのか? あのトラックの男は、氷点下の屋外でも余裕があったので僕に好意的だったのか? 焼けただれた瓦礫の原が冠水して泥沼になった気仙沼の人たちが、どんな地獄をみてきたのか僕にはわからない。でも彼らのみせる笑顔や親切が、天変地異にも風雪にも折れない、筋金入りのモンだっていうのは間違いない。

写真には何もうつらない。写真は何もつたえない。僕は期待はしていない。写真にうつっているのは、ただの廃墟だ。写真は結果にすぎない。ちょっとわすれられない経験をしたせいで、気仙沼には何度でもでかけて、ちょっとぐらい迷惑になっても写真をとらずにはいられないのだ。

気仙沼の男(ヤツ)

どうも気が小さいせいなのか、写真をとる時は息をとめる。この光はのがしたくないとか、さっさと場所を移動しないと人の迷惑になっちゃうとか、そういう理由で、格別の決定的瞬間をねらっているわけではなくても、緊張して息をとめてシャッターをきる時がおおい。

この間の気仙沼では、吹雪のぐあいと、雪景色の中のカラスが、かわいいような不気味なようなで、ちょっと思案した。そして車の屋根にあがった。雪道にのびている轍を、すこしだけ俯瞰したかった。カラスは乱舞しているし、雪はびゅんびゅんだし、屋根からころげおちないように足をふんばって、息をとめて何枚か撮影した。そして気をつけながら、いそいで地面におりた。そこで一気に頭痛がきた。酸欠だ。何枚か撮影する間に、息をするのをわすれちゃうからだ。貧血直前のように目の前が薄暗くなって、頭がつめたくなる。雪上にひっくりかえるわけにもいかないから、両手を膝についてこらえる。くるしくても、ゆっくり息を吐いて、それからまたゆっくりと吸い込む。時々やらかすので対処にあわてることはない。

だんだんおちついてきて頭をあげた。だいじょうぶだ。そうおもった時、前方の十字路にとまっている小型トラックの人と目があった。ハンドルに深く手をまわして、顔をこっちにむけている様子から、僕が車をとめている方へ右折したいのがわかる。ああ、失敗。せめて人に迷惑をかけないようにと、心がけてるのに。だめじゃん。こんなど真中に車とめて屋根にあがって写真とってたら、軽だって入ってこられない。あわてて手をあげて合図して、車にのりこんで始動する。むこうは、ゆっくりうなづいている。その前を通過しながら何度も頭をさげるけれど、座敷で挨拶しているわけじゃないので言葉なんか交換できない。運転するまま先に行くだけだ。僕の占拠していた道に、トラックが右折してゆくのがミラーでみえる。わるいことした。

ひろい場所に移動して、車をとめた。路面の舗装も、歩道の境界も、津波でぐちゃぐちゃになったのを撤去して、だだっぴろくなった場所だ。あのトラック、何の仕事だったかな。運転者は中年前の元気な感じで、荷台は空だった。余所者が車の屋根にのっかって夢中で写真とってるのがみえて、しょうがないから車とめて待ってたら、そいつが屋根からおりたら息も絶え絶えで、膝に手をついてうごかない。おいおい、どうすんだよ、さっさと移動しろよ。ふつう、おもいっきりクラクションならす場面だ。それをだまって我慢して、気づくまで催促もしない。頭さげられたら好意的にうなづいてやる。どうしてさ? 気仙沼の男って、みんなそんなに親切なのか?

気仙沼の女(ひと)

私が現場に足をふみいれたのは、震災からすでに3ヶ月ぐらいすぎた頃でした。実体コミュニケイションを媒介する道路という存在について、写真による考察を目的とした現地調査、なんて、大災害の深刻さに対したら屁みたいなものですから、しばらくは気がひけたのです。今は何の役にもたたないのだから、せめてじゃまにならない程度に復旧がすすんでから、というつもりでした。

気仙沼は、瓦礫の海でした。国道にかかる歩道橋から軽自動車まで、何もかも黒く焼けてただれていました。焦げ臭く、海臭く、巨船が駅前に座礁していて、そして地面が水没していました。私は自分の軽薄さを理解しました。そしておびえながら、のろいながら、なきながら、写真をとりました。もう、だって、ほんとに、どうすんだよ、ぜんぶぐちゃぐちゃだろ、なんで、ありえねえし、どんだけ死んだんだよ、怒濤でもみくちゃになって、海面ごと炎上してんじゃねえかよ、死ぬよ、ああ、もう、水びたしじゃんかよ、地面まで陥没しちゃったのかよ、どうすんだよ、こっから先いけねえだろ、ちくしょう、どうすんだよこれから、生きてるやつ死んじゃった方がよかったかも、死ぬより大変だよ、死にてえよ、子供なんかなくしたらよ、なんだよ、もうだめだよ、どうしようもねえじゃんかよ。私はそこいらじゅうにカメラをむけながら、ボロボロ涙と鼻水がでてきてとまらないのです。そうやって、ぐずりながら、ほかにどうしようもないので写真をとりつづけていました。

こうして今おもいだすと、ちょっと抵抗できないくらい美しい人だった気がします。私は声をかけられました。「どうしましたか? だいじょうぶですか? あっちまで行くのに困ってらしたら、長靴お貸ししましょうか?」そういう意味あいの言葉でした。声の主は、半分瓦礫にしかみえない家の残骸の、玄関からでてきた女の人でした。むだにでっかいカメラを持って、冠水した路上でぐずぐずしている私を、心配してくれたのです。「だいじょうぶです。ありがとうございます。」低頭してこたえました。他に何を言えたでしょう。鉄筋の電柱が割箸みたいにへしおれて、乗用車もトラックも積木のようにころげて、一面が火事になった産業廃棄物処理場にしかみえない町です。人の心には絶望以外に何ものこっていなくて不思議はありません。それがどうして、写真なんかとっている余所者に、親切にしてくれるのでしょう。ありがとうございますの他に、言葉は何もみつかりませんでした。こんな地獄でもうしなわれない強靭な親切です。それは私の理解していた大人の礼儀としての親切とは、まるっきり別物でした。

絵になっちゃうね

小松透氏の写真展「nature morte」2011.12.13-19 @新宿ニコンサロンで、不意にきこえた言葉が耳にのこった。地震と津波でひどい損害をうけた地域の、樹木に会いにでかけたような数々の白黒写真は、災害のおそろしさにもかかわらず、しずかで、瓦礫も植物も人間も、みなひとしくそこにある、心にのこる光景だった。それを見物して「絵になっちゃうねえ」と評する人があった。

何ともいえず、胸をつかれた。その人の目には、これが絵になっちゃってると、みえているのだから仕方ない。会場にいらした小松氏の応対は自然で、「絵」を肯定するでも否定するでもなく撮影の経緯を説明しておられた。たしかに、フレームの中にいれて事物として対面して、撮影して展示するのであるから、絵ではある。それを否定する必要もないし、できないのだけれど、そこにははっきりしない気持のざわざわがまとわりついている。なにしろあの大震災だ。撮影された絵をみて、すこし軽薄に放言してみたくなるのも、わからなくはない。だいいち被災地現場の写真が、すっぱりすっきり爽快である必要もない。

写真が、世界の民の悲惨を告発して、正義の側で声をあげる時代もあった。反対に、地獄絵図をネタに金をもうけて有名になる、悪の所行として批判された場合もある。お前はどういつもりでカメラをむけるのか? 今時その自意識と疑問は、べつに写真家の肩書なんかぶらさげていなくても、誰でもぶつかる種類の抵抗だ。瓦礫の原へ子供がつるんで車をのりつけコンデジでパチパチやって、すげえすげえをくりかえして、もりあがって家にかえるのと、報道の腕章をつけて遺体の収容にレンズをむけてくいさがるのと、どちらが上品か下品か、公益に寄与するか反するか、なんともいいにくい。はっきりわかっているのは、写真という行為のちっぽけであることと、災害と被害の規模が、あまりにも巨大であるということだ。写真の正義がはずかしいヒロイズムであるなら、ハゲタカの悪徳もさほどの大罪ではない。いずれにしてもたいしたことは、できやしない。写真は、あまりにも無力だ。

せめて絵にさせていただこう。災害は、無情な神のくだされる試練なのか、人間なんてなんの関係もない自然の猛威なのか、どっちにしても、みわたすかぎりの瓦礫や、片づけのおわった空白の町や、吹雪の復旧現場や、いきている人々や、そういう光景に、できるならちょっとでも写真的な美をみいだして、すこしでも私たちとみんなの心にのこす仕事ができるなら、写真に意味はあるのではないか。絵になっちゃう悲惨な光景を相手に、心しずかに対面するなんて誰にもできないことだから、私たちはこのまま行くしかないのだ。

吉野正起写真展:道路2011

町のすべてが瓦礫の原になった絶望の現場に、即座にとりついて道路の復旧にとりかかる人々がいた。とにかくなにがなんでもそこへいくために、一人でも生存者をたすけるために、医療と食料をとどけるために。私たちはまずはじめに道路を必要とした。道路は、自衛隊もマスコミも泥棒も医者もヤジ馬も、無差別に誰でもつれてくる公共施設だが、少々の不都合は仕方ない。風邪のバイキンもただよっているけど、空気を吸わないわけにはいかない。道路は、私たちが一人では生きていけない証拠だ。ある道路は跡形もなく崩壊し、ある道路は水中にしずみ、ある道路はずたずたになってしまったけれど、人はあきらめることなく工事をつづける。道路は、どんなことをしてでも私たちが生きていく意志でもある。だから、たった一夏放置されただけで雑草の海になった田畑の中を、誰一人とおる者のない空っぽの道路がのびている時、その場所は今でも私たちの意志さえゆるさない、恐怖が支配しているということだ。


吉野正起写真展:道路2011---岩手・宮城・福島---
銀座 NikonSalon 2012.3.21-3.27
大阪 NikonSalon 2012.4.12-4.18

みえない物は撮影できない

大震災で、津波の映像は、それこそ怒濤のようにメディアにながれた。私たちはその怒濤に、津波のようにおそわれてもみくちゃになった。地面の液状化も建物の倒壊も、津波に人がのみこまれてゆく瞬間までもが記録としてのこった。

カメラは地震直後から、もう上空を旋回していたし、やがて写真家も野次馬ももこぞって被災地をめざした。このくらい一部始終が絵として記録された災害もめずらしいのではないか。露悪的な表現になるが、津波は「絵になる」のだ。

けれど今度の災害のおそろしさは、撮影できる、絵になる光景よりも、まったく写真にうつらない現実の方にある。原発施設の無惨なありさまは、いってしまえば他の地域の大規模施設の損害と何もちがいはない。けれどそこは、生身の人間は接近することもできない、地獄以上のおそろしい場所なのだ。この爆心地を中心に、東日本全体が汚染の恐怖にのみこまれた。放射線は、不可視光線で、みえないから理解しにくく、わからないから恐怖もかきたてる。みえないから被害を限定できず、わからないので過剰反応もする。この実体を記録するのに、一般の写真は完全に無力だった。

写真家の広川泰士氏に、日本全国の原発を網羅した写真集がある。「Still Crazy」という批判的なタイトル以外は、およそジャーナリスティックな暴露主義からも、建築物的なスペクタクルからもかけはなれた、単なる原発施設の全景がモノクロでならんでいる。20年前の撮影だが、これがこわい。事故を経験した今だからこわい、というより、当時も今も、おなじように漠然と、どこまでも気持わるくなる種類のこわさだ。

東中野のポレポレ坐というミニシアター+カフェで、その広川氏と編集者・佐伯剛氏の対談があった(2011.7.30)。広川氏の作品群は、あらかじめ私情で味つけされた解答がつけてあったりしない、と佐伯氏は指摘する。しかし広川氏は、自身の原発写真について、まずは原発をみてみよう、こんな所なんだと人にみせようという気持があったとはなす。また、原発で仕事をしている人は、だいたいが優秀でまじめで、地元に密着しているとか、原子力発電といっても、薬缶でお湯をわかして発電機をまわすみたいな、きわめて原始的な方法でびっくりしたとか、およそ平明な知見をのべるだけで、解答を排除した独特な写真の作家とはみえない。

原発であると明記されなければ、およそ海辺の工場とちがいのわかりにくい、非説明的な風景写真と、作家本人の気さくな説明が、どうしてもなじまない。著名編集者の解説と、先見的な作家の方法論をきければ、目にみえない実体の撮影について納得できると期待したが、その意味では、まったくの不満におわった。あるいは、すっきりと腑におちる解答なんて存在しない、という意味では、作家の姿勢は一貫している、ともいえるが。

目にみえる物は影にすぎないし、撮影された絵は残像にすぎない。そういう理屈でいくなら、津波の被害だって本当の事は何も撮影できないが、私たちは残像をみることで、すこしだけでも現実をわかちあう。わかちあうことで、はじめて津波がこの国の現実になるともいえる。ならば原発事故も、みんなで残像をみた方がいいのだが、撮影された福島は、ただのこわれた発電所でしかない。むしろ20年前の原発風景写真の方に、いわく説明しがたい不気味な放射線がうつっている気がするのだが、それこそ個人的な勘ちがいかもしれない。

 何のために

日本の国土は、実は意外にけわしい地形なので、車ではしりまわっていると時々びっくりするような道路にであう。断崖絶壁にへばりついた旧道や、もろに波しぶきのうちつける国道や、のぞきこむだけでこわくなる峠の隧道。おもわず色々かんがえてしまう。よくもこんな場所にこんな道路をつくったもんだと、びっくりするし、あきれるし、工事を貫徹した人たちの根性を尊敬しないわけにいかないし、その技術を自分のことのように自慢したくもなる。

そして工事が困難にみえる分だけ、その道路には理由がはっきりと刻印されているように感じる。

金なんて関係ない

子供が交通事故にあって、足がうごかなくなるかどうかの手術をする時、どれだけ費用がかかるかなんてのは、二の次になる。もちろん保険をどうするかとか、病院をえらべるかとか、金についての責任は無視できない。けれども、ほんとうに子供の足がすべて。あとは関係ない、という気持になる。

土砂でうずもれて使用不能になった空港滑走路に、どこかの土木建設会社が、大々的に重機をもちこんで復旧をいそいだのは、その時そういう資材をまわすゆとりがあったから、というよりも、その必要があったから、という方がただしいだろう。その仕事をやれば後で評価されるとか、全体としてペイするとか、そういう計算を否定する理由はなくても、計画を実行したのは、それがどうしてもやらなくてはいけない仕事だったからだろう。

実際の話、金なんて関係ない、という場合はあまりない。金はあった方がいいにきまってるし、その時だけでなく継続的に必要な仕事は、お金をまわしてやらないと、きちんとした存続を保証できない。お金は大事だ。

だけど津波に破壊されて瓦礫の海になった町に、まずとにかく道路を復旧させようと、絶望するヒマもなくとりついて、死にものぐるいで土木作業をやった人たちが、給料のために仕事をしていたとは、かんがえにくい。自衛隊や消防の人が、給料の分だけ労働して帰投したと、感じた人もいないだろう。

「私」と「私たち」

地震と津波と原発事故で、いまだに有頂天になっている有識者をみて、心底「うるさい」と感じたりする私は、もしかするとひねくれ者かもしれない。それとも、自分だけは人とちがうと自慢したい、平凡な消費者かもしれない。でもどちらにしても、今度ばかりはどうでもいいのではないか、ともおもう。

私は、あの震災の後、「私たち」という主語をつかうのに抵抗がうすれた。私たちはひっくるめて、地震や津波や放射能に対して、あまりにもちっぽけだからだ。体育館で雑魚寝する「被災者」とエアコンをつけてねる「私」を、同一視するのは勘ちがいだとおもう。「非被災者」だって北海道から沖縄まで、もちろん千差万別だし、「被災者」の間にも、被害には天地ほどのちがいがあるはず。それはたしかなのだけれども、今は「私たち」という言葉でもいいだろうと感じる。

「私」ひとりぐらい、かっこつけても無駄だし、自分じゃ何もできないし、たすけてもらわないと死んじゃうし、だからこそ人の役にもたちたい。「私たち」の希望は、みんなそれほどちがいはない。自分は天才だから風呂にはいらなくても平気、なんてことはない。俺はオタクだから放射能は気にしない、というわけにもいかない。利害の不一致だとか、個性の尊重だとか、そういう贅沢をたのしむためには、ある程度の生活水準がないとだめだ。

戦争で廃墟になった東京の人たちは、もしかするとこんな気持だったのではないか。誰がどうだかしらないけど、みんなでやるしかない。私たちは、ひとりで無理してもたかがしれてる。とにかく無条件降伏なんだから、ごたごたいわずに全員でやりましょう、と。

 個人的な感情

「3月11日の大震災以降」という枕詞を、どこでも目にする。公共の文書だけでなく、人前で話をする場合にかぎらず、ちょっとしたおしゃべりでも私信でも、大震災は「必須の項目」であるかのようだ。それが被災地の人ではなくても、かならずしも妻子や自宅をなくしたわけではなくても、往々にして、収入が激減したり仕事の計画がたてられなくなったりしているから、それはあたりまえだ。

もちろんいつでも、大事件ぐらいある。とんでもない比率の為替変動だとか、中国の台頭だとか、昔でいえば石油ショックだのバブルだの。大事件の後は、何かがちがってくる。それが大事件というものだ。

ただ、3月11日の大震災以降というのは、壮絶な規模の、物や金の問題であるのと同時に、理由の説明しにくい、精神とか善意とか倫理とかの意味がおおきくなった。いつもお金と商品をうごかすことで毎日をおくってきたのに、いざ、こうなってみると、私たちが実は、金や物なんかでは理解できない、浪花節のような根性や人情でうごいていたからだ。

大震災の後、私たちは、私たち自身にびっくりしたのではないか。

この私たちが、社会のシステムを言訳にしないで、そんなのは眼中になく、やむにやまれずどうしても必要なことのために、うごいてしまった。馬鹿みたいに感情的になって、被災地と東北と日本人をかんがえてしまった。センチメンタルな自分を嘲笑するヒマもなく、行動していた。

 どうでもいい事

政治や企業の責任追及なんてどうでもいい。テレビの話をきいて「ふざけんじゃねえぞ」とおもっても、どうしてくれる権力もないし、仮にその権限をあたえられたとしても、本当の話をよりぬいて処分すべき人間を厳正に処分するなんて、そんな立派な器はもっていない。

国民としての責任があるといわれても関係ない。節電しろとかいわれても「ほしがりません勝つまでは」みたいで気にいらないし、国力とか国政とか国民的議論とか、新聞の社説みたいな話は、新聞の社説を執筆するような、高給サラリーマンがしゃべっていればいいのだ。