信じる理由がある

ロンドンの人混でスリにあったりしたら、かならずしもイギリス人が全員ドロボーだと思わないとしても、印象がわるくなるのは当然だ。旅先の損害はとても痛いものだから、ロンドンの風景をおもいだすたびに不快な経験もよみがえるだろう。僕にとっての気仙沼はその反対で、あの瓦礫の海をおもいだすたび胸が熱くなる。あの町の男女ひとりずつに親切にしてもらっただけで、三陸一帯の人がみんなあんなに親切なんだと信じるわけじゃなくても、わるい印象なんて、どうやっても持てない。だって、あの惨状だぞ。

金に不自由してなくて友達がいっぱいいて体が丈夫で、毎日夢をもってやりたい仕事ができていたら、気持にゆとりもあるだろう。横断歩道にお年寄が立っていたら、ちょっと車をとめて、にっこりわらって渡してあげたくなるかもしれない。電車で席をゆずるのも義務だからではなくて、自分がもっといい気持になるために自然にできるだろうと思う。自分が安心できていれば、人様の気持をかんがえる余地ができる。親切とは、そういうもんだと僕はかんがえていた。もちろんそれは暇人の娯楽だとはいわない。自分のためにも、人のためにもなる、大事なことだと思っている。ゆとりさえあるならば、だ。

だから僕は自分に、何度でもききたくなる。瓦礫の原であの女性は、自宅が半壊でもゆとりがあったから僕に親切にしてくれたのか? あのトラックの男は、氷点下の屋外でも余裕があったので僕に好意的だったのか? 焼けただれた瓦礫の原が冠水して泥沼になった気仙沼の人たちが、どんな地獄をみてきたのか僕にはわからない。でも彼らのみせる笑顔や親切が、天変地異にも風雪にも折れない、筋金入りのモンだっていうのは間違いない。

写真には何もうつらない。写真は何もつたえない。僕は期待はしていない。写真にうつっているのは、ただの廃墟だ。写真は結果にすぎない。ちょっとわすれられない経験をしたせいで、気仙沼には何度でもでかけて、ちょっとぐらい迷惑になっても写真をとらずにはいられないのだ。