気仙沼の女(ひと)

私が現場に足をふみいれたのは、震災からすでに3ヶ月ぐらいすぎた頃でした。実体コミュニケイションを媒介する道路という存在について、写真による考察を目的とした現地調査、なんて、大災害の深刻さに対したら屁みたいなものですから、しばらくは気がひけたのです。今は何の役にもたたないのだから、せめてじゃまにならない程度に復旧がすすんでから、というつもりでした。

気仙沼は、瓦礫の海でした。国道にかかる歩道橋から軽自動車まで、何もかも黒く焼けてただれていました。焦げ臭く、海臭く、巨船が駅前に座礁していて、そして地面が水没していました。私は自分の軽薄さを理解しました。そしておびえながら、のろいながら、なきながら、写真をとりました。もう、だって、ほんとに、どうすんだよ、ぜんぶぐちゃぐちゃだろ、なんで、ありえねえし、どんだけ死んだんだよ、怒濤でもみくちゃになって、海面ごと炎上してんじゃねえかよ、死ぬよ、ああ、もう、水びたしじゃんかよ、地面まで陥没しちゃったのかよ、どうすんだよ、こっから先いけねえだろ、ちくしょう、どうすんだよこれから、生きてるやつ死んじゃった方がよかったかも、死ぬより大変だよ、死にてえよ、子供なんかなくしたらよ、なんだよ、もうだめだよ、どうしようもねえじゃんかよ。私はそこいらじゅうにカメラをむけながら、ボロボロ涙と鼻水がでてきてとまらないのです。そうやって、ぐずりながら、ほかにどうしようもないので写真をとりつづけていました。

こうして今おもいだすと、ちょっと抵抗できないくらい美しい人だった気がします。私は声をかけられました。「どうしましたか? だいじょうぶですか? あっちまで行くのに困ってらしたら、長靴お貸ししましょうか?」そういう意味あいの言葉でした。声の主は、半分瓦礫にしかみえない家の残骸の、玄関からでてきた女の人でした。むだにでっかいカメラを持って、冠水した路上でぐずぐずしている私を、心配してくれたのです。「だいじょうぶです。ありがとうございます。」低頭してこたえました。他に何を言えたでしょう。鉄筋の電柱が割箸みたいにへしおれて、乗用車もトラックも積木のようにころげて、一面が火事になった産業廃棄物処理場にしかみえない町です。人の心には絶望以外に何ものこっていなくて不思議はありません。それがどうして、写真なんかとっている余所者に、親切にしてくれるのでしょう。ありがとうございますの他に、言葉は何もみつかりませんでした。こんな地獄でもうしなわれない強靭な親切です。それは私の理解していた大人の礼儀としての親切とは、まるっきり別物でした。