絵になっちゃうね

小松透氏の写真展「nature morte」2011.12.13-19 @新宿ニコンサロンで、不意にきこえた言葉が耳にのこった。地震と津波でひどい損害をうけた地域の、樹木に会いにでかけたような数々の白黒写真は、災害のおそろしさにもかかわらず、しずかで、瓦礫も植物も人間も、みなひとしくそこにある、心にのこる光景だった。それを見物して「絵になっちゃうねえ」と評する人があった。

何ともいえず、胸をつかれた。その人の目には、これが絵になっちゃってると、みえているのだから仕方ない。会場にいらした小松氏の応対は自然で、「絵」を肯定するでも否定するでもなく撮影の経緯を説明しておられた。たしかに、フレームの中にいれて事物として対面して、撮影して展示するのであるから、絵ではある。それを否定する必要もないし、できないのだけれど、そこにははっきりしない気持のざわざわがまとわりついている。なにしろあの大震災だ。撮影された絵をみて、すこし軽薄に放言してみたくなるのも、わからなくはない。だいいち被災地現場の写真が、すっぱりすっきり爽快である必要もない。

写真が、世界の民の悲惨を告発して、正義の側で声をあげる時代もあった。反対に、地獄絵図をネタに金をもうけて有名になる、悪の所行として批判された場合もある。お前はどういつもりでカメラをむけるのか? 今時その自意識と疑問は、べつに写真家の肩書なんかぶらさげていなくても、誰でもぶつかる種類の抵抗だ。瓦礫の原へ子供がつるんで車をのりつけコンデジでパチパチやって、すげえすげえをくりかえして、もりあがって家にかえるのと、報道の腕章をつけて遺体の収容にレンズをむけてくいさがるのと、どちらが上品か下品か、公益に寄与するか反するか、なんともいいにくい。はっきりわかっているのは、写真という行為のちっぽけであることと、災害と被害の規模が、あまりにも巨大であるということだ。写真の正義がはずかしいヒロイズムであるなら、ハゲタカの悪徳もさほどの大罪ではない。いずれにしてもたいしたことは、できやしない。写真は、あまりにも無力だ。

せめて絵にさせていただこう。災害は、無情な神のくだされる試練なのか、人間なんてなんの関係もない自然の猛威なのか、どっちにしても、みわたすかぎりの瓦礫や、片づけのおわった空白の町や、吹雪の復旧現場や、いきている人々や、そういう光景に、できるならちょっとでも写真的な美をみいだして、すこしでも私たちとみんなの心にのこす仕事ができるなら、写真に意味はあるのではないか。絵になっちゃう悲惨な光景を相手に、心しずかに対面するなんて誰にもできないことだから、私たちはこのまま行くしかないのだ。