「私」と「私たち」

地震と津波と原発事故で、いまだに有頂天になっている有識者をみて、心底「うるさい」と感じたりする私は、もしかするとひねくれ者かもしれない。それとも、自分だけは人とちがうと自慢したい、平凡な消費者かもしれない。でもどちらにしても、今度ばかりはどうでもいいのではないか、ともおもう。

私は、あの震災の後、「私たち」という主語をつかうのに抵抗がうすれた。私たちはひっくるめて、地震や津波や放射能に対して、あまりにもちっぽけだからだ。体育館で雑魚寝する「被災者」とエアコンをつけてねる「私」を、同一視するのは勘ちがいだとおもう。「非被災者」だって北海道から沖縄まで、もちろん千差万別だし、「被災者」の間にも、被害には天地ほどのちがいがあるはず。それはたしかなのだけれども、今は「私たち」という言葉でもいいだろうと感じる。

「私」ひとりぐらい、かっこつけても無駄だし、自分じゃ何もできないし、たすけてもらわないと死んじゃうし、だからこそ人の役にもたちたい。「私たち」の希望は、みんなそれほどちがいはない。自分は天才だから風呂にはいらなくても平気、なんてことはない。俺はオタクだから放射能は気にしない、というわけにもいかない。利害の不一致だとか、個性の尊重だとか、そういう贅沢をたのしむためには、ある程度の生活水準がないとだめだ。

戦争で廃墟になった東京の人たちは、もしかするとこんな気持だったのではないか。誰がどうだかしらないけど、みんなでやるしかない。私たちは、ひとりで無理してもたかがしれてる。とにかく無条件降伏なんだから、ごたごたいわずに全員でやりましょう、と。