物語

格別の賞罰もない人生だって、どこにでもある初恋だって、話をきいてくれる人がいれば物語になる。誰だって自分なりには真剣に生きているから、きいてほしい話のひとつやふたつはある。ちょっと記憶にのこる場面もないわけじゃない。

中学の時にはじめて女の子の家にあそびにいって、決死の覚悟で気持をつたえた、その日の路上の深紅のカンナとか、相手にしてもらえるわけがないと最初からわかっていた劣等感とか、そういう凡庸な話でも、すこし同情しながら可笑しがってくれる友人でもいれば、それはかけがえのない物語になる。あちこち女をわたりあるいて多額の借金をかかえて、商売で再起をはたして病気になって、復帰しても気力がもどらないなんて、親友がぽつぽつときかせてくれたら、それは波瀾万丈の大河ドラマだ。物「語」っていうくらいだから、やっぱり大事なのは、話をしてくれる、話をきいてくれる、その事にある。もしかして内容は二の次でもいい。

超有名なスポーツ選手とか芸能人とかでも、誰にも見てもらえなくなったら単なる一人の人だ。どれだけ苦悩しても、死ぬほど努力しても、誰の目にもとまらないでおわったら、話にならない。人がみてくれないと物語にならない。弱小球団をささえた炎のピッチャーが、故障をかさねながら再起をめざして地べたでもがくように練習をつづける姿は、それだけで人目をひきつけた。だから、彼が最終的にエースとして復活することがなかったとしても、物語の値打はかわらない。そのヒーローの熱を感じるのは、エースとしての活躍に目をうばわれた時と、おなじだ。

感動するべき値打があるから他人の目にもとまるのだが、たくさんの人の注目をあびることではじめて、存在がリアルになったりするだろう。人目と値打は、ニワトリと卵の関係にあるから、どちらを因果関係の上位におくかは自由だ。しかし私たちの物語にとって、人目が不可欠なのはまちがいない。卵にとってのニワトリのように。

ならば・・・。女房子供と家と船を、もろとも津波でなくしてしまった漁師にとって、何か心をふるいたたせる物語が、はたして地上のどこかにあったりするだろうか。手塩にかけてそだてる何十頭もの牛を、放射能がこわいという理由で、放置して、にげて、もう大丈夫だといわれて、おそるおそるかえってきて、やせこけてたおれて腐敗した何十頭もの死骸をみつけた男にとって、必要な物語はなんだろうか。自分の手足をちょんぎる方がずっと楽なのではないかというくらいの苦痛をあじわった時、物語ごときが何かの役にたつか。それはわからない。

絶望に対して有効なのかどうか。物語には人を治癒する力があるかどうか。そんなことを証明しようとしても無理だろう。津波は神のあたえた試練であるとか、放射線は日本人にくだされた罰であるとか、そういう大袈裟な物語をふりかざしたら、誰かが得するのかもしれないが、ふつうにはゴミのように無意味だろう。乾電池と吸殻のまじった生ゴミのように不愉快だろう。

だから、話は逆なのだ。何十年たっても、何兆円の金をかけても、ぜったい元にもどったりはしない絶望の原野で、誰にも話をきいてもらえず、誰にも惨状をみてもらえず、どんな理由づけもできず、何の義務感も目的意識もないままで、人はいきていけるのか。もしも自分だったら。それはかんがえるのもおそろしいことだが、それがもしも自分ならば、きっと、どんなにちいさくてもいいから、我慢の意味をさがすだろう。ちょっとでいいから、話をしたいだろう。どうしてこんなことがおきなければならなかったか、どうして自分だけがのこされなくてはならなかったか、どうしてまだいきていかないといけないのか。答なんかみつからなくても、どうしても無言の声が、あふれしまうだろう。

写真に何か力があるかどうか、そんなことはしらない。けれどはたして写真をとらないでいられたのか。それは無理だった。そこにいきているセイタカアワダチソウ、自衛隊、海中に没した橋脚、営業をはじめたコンビニ、土台だけになった町、青空、吹雪、工事の車両、何もかもひきはがされて露出した地面、信号機、そういう物事は、それ自体がむきだしの意味を叫んでいた。

2012.11.15