道路

道路が通じていなければ、自分は絶対にあんなおそろしい場所へ撮影に行ったりしなかった。でも波にのまれて炎上していたのは、地つづきで、日本語がつうじて、しかも道路がつながっている場所だった。自宅から、ちょっとはなれた日用雑貨の量販店まで、車で30分ぐらい、その延長線上の数時間先に、被災地があった。放射線のおかげで空っぽになった無意味な道路も。

写真なんかとりにいっても、何の役にもたたなくて、何もできなかったのは、菅直人が現地に急行しても何もできなかったのとおなじかもしれないが、それでも写真は、とらないよりも、とっておいた方がいいし、それは、無数の死と絶望の渦に対して、胸のはりさけるほどくるしい勇気をふりしぼる人々の力に、自分がすこしでもさわってみたかったからなのだ。

勇気は絶望よりもくるしい。あきらめれば、たたかわなくてすむ。でも現実っていうもんがあるのなら、それはぶつかって苦痛に顔をしかめる時にしか理解できない。自動車にのって移動する道路は、ちょうどエスカレーターのように安易で非現実的な設備だけど、その先にあるのはむきだしの現地だったりする。安易なメールと気楽なクリックごときでも、血のでるようなリアクションがかえってきたりするのとおなじだ。覚悟しておいた方がいい。用心しないと、現実はいつでもそこいらへんにあるっていうことだ。

自分の家に、二度とかえれない人がたくさんいる。そして、汚染がこわいから絶対かえりたくないのに、汚染はもう平気だからかえりなさいっていわれる人もいる。何千人なのか、何万人なのか。はっきりした嘘や、意図的な中傷のおかげで、露骨な現実以上に過酷な境遇にあるかもしれない。

この道路の先に、そういう世界がある。写真をとるのは、そういう世界が相手だったりする。道路も、写真も、他人事として多少は風化してもらわないと、とても正気でいられない種類の現実につながっている。2012.11.12