道路の話はきりがない

写真にとりたい対象として道路に関心をもつようになったのは、五年前です。伊豆の温泉にでかけた帰りに、偶然、旧道をみつけたんです。ちゃんと舗装されてるのになぜか荒廃してみえる細い道が、国道からそれて、海におちる崖の方へのびていました。それがとても気になって。通行止でもなかったので車で入っていきました。そうしたらその道が、だんだん狭くなってゆく。道の両側から植物がせまってきて、道幅の半分が緑にのみこまれていたんです。とても心をうごかされました。その時の写真が、今度掲載してもらう最初の一枚です。それがきっかけで道路の魅力に気がついて、最近では東北地方を中心に撮影しているんですけれど、その話をしろって言われたら、実は際限がないです。

たとえば岩手県の山間部を車で走っていて、日没の早い谷底だったりして、どんどん暗くなってきて、そこに巨大な山がせまってくる。そういう時の道路なんて、もう絶対無二の心の支えですよ。つめたい谷川にそって、まっ白なガードレールがずうっと糸をひくみたいにのびている。とにかくこの道をたどっていけば町に帰れる。そうすればガソリンスタンドもコンビニもホテルもある。道路は、文明の天国につながっている蜘蛛の糸で、本当に、本当に、大切な存在なわけです。だからいくらでも語れる。

道路っていうのは、言葉にならない感傷とか、人に言えないときめきとか、そういう情緒とひっくるめて、どうかするとわずらわしい種類の議論や理屈まで、いっぱいひきずってきます。社会的なコストとか、地域社会の存続とか、自然環境への影響とか、個人の自由とか、そういう。

北上山地の谷底でしみじみと感動するのは、まっ白なガードレールで保証された道路の、パースペクティブのうつくしさですけれど、それを堪能するのとおなじ瞬間に、この山裾にある集落にとっての、この道路の存在意義をかんがえてしまうわけです。ここでは、この道路自体が、医療や、教育や、現金収入を意味するだろうとか。この道路の維持管理が、費用対効果の観点から無駄であると判断されてしまったら、それは廃村の宣告とおなじだろうとか。あるいは津軽半島の北端の、雪が真横にすっとんでゆくような海沿いだと、昔の隧道にショックをうけます。津軽海峡の怒濤がうちつける岩山をぶちぬいて道路を通したっていう、それこそ岩をもつらぬく意志の力が目にみえてフォトジェニックだったりします。それをすげえすげえって見ていると、ついこの間までの日本人がみんな、未来への情熱に焼かれていたという想像につながる。誰もが、自由に、安全に、国中を通行できる未来社会を夢に見ていたんだろうと。だから「道路」という制度は、ひとつの理想の実現ですよ、やっぱり。それもたとえば、大地震の被災地を見たりすると感じられる事です。自分の私生活とは何の関係もない地方なのに、道路が、ゆがんだり、ぶちきれたりしていると、それはおそろしいものです。それは普通はあってあたりまえの、みんなが安全に自由に行ったり来たりできる、大前提が破壊されたからですね。流通とか自由とか福祉とか地域とかいう単語が、とてもリアルにみえてきます。

自分がフォトグラファーとして夢にみるのは、言葉にならない美の世界だったりしますが、どうも今のところ、議論とか連想とかが噴出してとまらないような光景にひきつけられています。道路の撮影なら、日本中の旅行なので興味は尽きませんし。

(「アサヒカメラ」誌11年2月号インタビュー再録)