この3月11日に、世界のおわりがきた、そう感じた人はたくさんいるだろう。アフリカとか中国とかでなく、今の日本の、ここいらへんで、こんなおそろしい事が本当に現実になるなんて。
濁流にのみこまれて炎上しながら町全体が崩壊してゆく。ものすごい映像に釘づけになり、言葉をなくした。それから今度は、映像にはぜんぜんうつらない放射線の恐怖によって、無力だけでなく、無知をつきつけられた。あわてふためき、後悔し、臍をかみ、これが世界のおわりでないなら、すくなくとも、ここから先の世界は今までとおなじではいけないと、誰かにひっぱたかれたみたいに実感したはずだ。
あの時の緊迫感と、変な種類のもりあがりは、今やうすれつつある。いやむしろ、あの時のあの気持を、そのままおもいだす方がむずかしい。肉親や自宅をなくさなくても、収入が激減したり、仕事の計画がたてられなくなったり、漠然としたおそれが頭にこびりついたりしている。でも、もうあの時とはちがう。
平和で、平凡で、安直な気分がもどってきている。不平不満をテレビに正当化してもらって、毎日をすごしている。国の責任だ。政治家がゴミだ。企業がゆるせない。あの時より以前と、まったくおなじように。不幸とか、不安とか、不満とかが、どこかのわるい人のせいであるかのように。
時々ふと、すこし疑問におもったりしないだろうか。「国」って誰だ? 「政治家」って何人だ? 国民の「不安」って、文句いってれば誰かえらい人が解消してくれるモンだったのか?
「国」の責任。「国」の対応。「国」の指針。「国」の援助。「国」の姿勢。「国」の理解。「国」の出資。「国」の判断。「国」の説明。「国が」「国が」って、すぐにみんないうけど、・・・「国」って、誰だ?