ほんとか?って、意見の本音をのぞきこみたくなる時がある。見当ちがい、ということもある。よくかんがえないといけない。私たち、一人一人が、この国の当事者だ。自覚をもってこの国難にあたらないといけない。だからすこしでも、できることをやろう。とか・・・
いや、もちろんいいんだ。節電だって勤労奉仕だって、東北の物産を支援購入するんだって、いいとおもう。わるいわけない。誰だってちょっとぐらい誰かの役にたちたい。何かに貢献してるぞって、おもいたい。
けど、この地震と津波と放射能汚染について、私たちの一人一人に「責任」があるとかって、いわれちゃうとしたら、どうだろう。福島、宮城、岩手の、太平洋沿岸の、おぞましくたえがたいくるしみについて、私たち一人一人は、あの人たち一人一人に対して、救済の「責任」があるのか。あの人たちに課せられた息もできないくらいの忍耐と努力には、同情や共感や尊敬の念をいだくことはあっても、「責任をはたせ」といわれたら、ちょっとこまる。
仮に、私たちが自覚的な有権者であり、主権在民を実現する国家の当事者として、代理人の任命責任者であるなら、私たちは被災地から発せられる数々の非難と期待と憤懣を、あびせかけられても仕方ない。その反対に私たちが無知蒙昧な消費者でしかなくて、ただの労働によって日銭をもらって生存している下々の者にすぎないなら、私たちは「国難」について「責任」がない。そういう理屈ではないか。