消失点

地平の彼方に、一点の目的があって、そこへむかって道路がつづいている光景を何度もみた。何度もみた、という印象になっているのは、その光景にわかりやすい意味があるからだろう。

ひらけた地面が空の下にあって、そこに一本の道路がつづいている。当然ながら、みている自分がここにいる。そうすると、自分を中心にした遠近感がとてもわかりやすくなる。彼方はふりかえる過去なのか、すすむべき未来なのかはどちらでもいいが、とにかく、単純化された方向性と距離感が、時間の比喩になるのだ。

とおくにみえなくなってしまった過去と、とおくにみえない未来の、間をつなぐ者として自分が存在する、さみしさというか、すがすがしさというか、消失点のある光景は、私たちにそういう意味をつたえてくる。

だから、だ。

津波で、廃棄物の原野になってしまった町の、どまん中をつらぬいて復旧した道路に一人でたつ時、あまりのおそろしさに身がすくむのだ。何十年も何百年も前から営々とつみかさねてきた労働の成果が、すべてがらくたになってしまった無念。そればかりか、この先何十年何百年はたらきつづけても、おなじようなしあわせの町は再建できないかもしれない不安。過去と未来をどうやってつないだらいいのかまるでわからない絶望におそわれるのだ。

自分はちいさい。本当にあまりにもちいさい。人の個性が様々であるなんて、ヒマな時のたわごとだ。怒濤にもみくちゃになってしまった町にぽつねんとする時、自分の無力をかみしめない人はいないだろう。

そして絶望するヒマもなく瓦礫の原にとりついて、とにかく道路を復旧させようと仕事をはじめた「ふつう」の人たちのたたかいぶりに、勇気をもらわない人もいないだろう。